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「許される表現」と「社会的コンセンサス」

松本徹三氏の「私は田部大輔さんの意見に反対です。」(アゴラ)を読んで、表現を規制したい人々(自分が適正だと信じる表現だけが流通することを望む人々)とは、議論をしてもやはり時間の無駄だな、と改めて思いました。

といっても、私は田部氏の意見(アゴラ)にも同意できなくて、「ソフ倫」が自主規制することについては、「表現の自由」がどうこうという重大問題ではないと思っています。そもそもソフ倫は、業界が政治的なモノを含む社会との摩擦を少なくするために自主規制をするための団体でしょうから、今回は単に状況に反応して仕事をしただけだと思います。仮に、日本でコンピュータゲームという表現を公表するのにソフ倫の許可が必須で、許可なく公表すれば有罪になる、というなら別ですが、ソフ倫はそういうものではないわけですから。ソフ倫に問題があるというならソフ倫を通さず公表し、社会に問うべきであって、それが表現の自由だと思います。ソフ倫のあり方を考えるのも無意味ではありませんが、ソフ倫の規制に反対している人々の中にはソフ倫の存在を絶対視(過大視)している人もいるように見え、仮にそうならそれこそ「表現の自由」として大問題だと思います。

ですから、松本氏の記事には同意できる点もあります。

松本氏は記事の中で、社会における表現というモノについて、次のように述べています。

  1. 殺人も、強姦も陵辱も、行為としては許されず、全て犯罪となる。
  2. 人間は、幻想や妄想の世界では、何を考えても自由で、何人もそれには介入できない。
  3. しかし、そのような考えを表現することに関しては、「許されること」と「許されないこと」があり、その社会的影響が、「何が許され、何が許されないか」の判断基準となる。

私も1.2.には同意できます。ただし、3.に関しては、「表現すること」と「表現を公表すること」を同一視しているように受け取れる点に異論があります。

私は、「表現を公表すること」には社会的制約を受けると考えていますが、「表現すること」自体は幻想や妄想と同様に「何人もそれには介入できない」(技術的にできないという意味ではなく、例え技術の進歩でできるようになってもしてはいけない)という立場です。自分の家で机に向かって、強姦や陵辱の表現をしただけで警察に捕まったり社会的制裁を受けるのは、私の信じる正義に反します。ですから、表現の単純所持を、単純に違法とするような法律には断固として反対です。

そして私は、「表現を公表することは、善悪良識道徳などと無関係に、原則として自由であるべきだ」と信じています。表現の公表が制約を受けるのは、客観的で具体的な悪影響がプラスの影響を社会的に許容できないほど上回っている場合だけであり、その場合も規制の範囲などは、悪影響が許容できる範囲まで縮小する最小限でなければならないと信じています。ましてや「嫌いな人が大半」などという理由は“論外”です。

今回の記事を読む限り、松本氏は適正な表現だけが公表されるべきだと考えているように思えました。同意できません。
また、表現が許されるかどうかは「社会的コンセンサス」で決まるとも考えているようです。同意できません。現実問題としてそういう面はあるでしょうが、そうであるべきだとは考えません。私は民主主義原理主義者ではないので、表現の公表は多数決で決まる性質の問題ではないと信じています。

松本氏に限りませんが、表現を規制したい人々に共通して感じるのは、「欧米先進国」へのコンプレックスまたは盲信と、客観的で具体的な悪影響についての説明不足です。

松本氏のアゴラの記事にもあるように、特にポルノに関連する表現を規制したい人たちは、どういうわけか「先進国」(=欧米人)の道徳や良識といった話を持ち出します。仮に、日本の社会にすでに欧米と同様のコンセンサスが存在するのなら、わざわざ欧米の話を持ち出す必要はないわけで、「先進国」(=欧米人)の話を持ち出すということは、日本にはまだ成立していないコンセンサスを成立させよう、または「社会的コンセンサスが存在すると錯覚させよう」としているのではないか、と疑わざるを得ません。そもそも、日本人には欧米人を愉快にしなければならない義務などないはずです。欧米人を愉快にしなければ、日本の国益を損なう事態になる、ということかもしれませんが、それならばまずそれを問題にすべきです。

松本氏は悪影響について次のように述べています。

「少年少女を対象とする性行為についての表現」については、これが広く社会に流通すれば、現実に少年少女が被害者になる危険性を増大させますし、一方、青少年自身が加害者になる危険性も高めますから、「これは徹底的に規制すべきである」というコンセンサスは確実に存在します。

近年では、日本発の児童ポルノの存在が大きな問題になっており、これを規制出来ていない「日本という国と社会」に対する批判が高まっているのも事実です。

しかし、問題なのは「危険性を増大」させることではないはずです。「危険性を増大」させることなど、世の中にいくらでもあります。因果関係が分かりやすいものもあれば、そうでないものもあるでしょう。問題は、具体的に「どのくらい増大させるか」です。また、「徹底的」という表現は具体的に何を意味するのでしょうか。「徹底的に規制」する具体的内容は千差万別でしょう。仮に『「これは徹底的に規制すべきである」というコンセンサス』があるとしたら、私は、日本の社会が集団ヒステリーに陥っているのだと思います。ポルノ問題より、遙かに優先順位の高い問題です。

欧米が「日本発の児童ポルノ」を問題にしたがっているのは事実でしょう。しかし、松本氏が言うような「規制出来ていない」事実などないし、児童ポルノ関連の問題が深刻なのは日本ではなく欧米です。だからこそ、彼らは「アジアの外国」である「日本発の児童ポルノ」を問題にしたがっているのだと考えます。ポルノ関連を含めて、日本で違法なモノが欧米で合法な事例は多くあります。欧米の一部地域で違法だからといって、日本が世界で最も許容範囲の狭い規制法を持たなければならない理由などありません。

また松本氏は、

私自身にとっては、性暴力的な映像やゲームソフトの存在は不快であり、こういうものが自分の周りにいる(私が愛している)中高校生達の目に入る事は、極めて好ましくないと思っています。従って、誰かがこういうものを制作して世の中に広めようとしているなら、それは「私自身の人権に対する挑戦」だと考えます。

と言いつつ、

「性暴力的なゲームソフト」の制作を禁止されれば、「妄想を表現する」意欲を抑えられて鬱屈感に苛まれる人達や、生活の糧を得る手段を制限されて困る人達も、何人かはいるでしょう。しかし、こういう人達は、「インターネットに対する社会的反感を拡大させない」という「より大きな目標」の為に、何とか我慢して頂きたいと思います。

と言うわけです。不快なモノの存在は「私自身の人権に対する挑戦」だが、他人の人権に関しては「何とか我慢して頂きたい」というわけです。それも、「インターネットに対する社会的反感を拡大させない」ために。「表現の公表」にその程度の価値しかないと考える人と、議論は成立しない気がします。

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